pre-comの大切さ

March 6, 2008

このところcomについて考えている。

コミュニケーション(communication)という言葉は、意思の疎通/共通認識/意図の共有という意味として使われる事が多いが、現在ではそれがとりあえず知らせておけば良いという風潮になっているのではないかと思う。その前提条件としてある、何の為にコミュニケーションを図るか、各場面においてどう理解し合えば理想なのかについてはあまり考えられていない。

誰かと何かを一緒にしようとする場合、本当はまずこちらの状況を解ってもらわないと、何故そうしようとしているかが理解してもらえない。それと同時に相手のバックグラウンドが解らないと、こちらの一緒にやろうという方向も理解してもらえない。

しかし、一方的にこちらがこうしたいという事実、つまり、こうして欲しいと知らせる事に傾いてしまうという問題がある。「伝えておいたから良いはずだ」と勝手に解釈する事はコミュニケーションではない。前提条件を良く掘り下げる事が大切で、それで初めて相手に理解してもらおうという姿勢になる事を理解する必要がある。

また、最近ではcommunismが見直されている。共産主義やマルクスの思想や哲学が見直されているようにいわれている。そういえばソ連が崩壊した頃、ニューヨークのSOHOにコミュニズムブックスという本屋ができていて、ゲバラやカストロや1968年周辺の思想の本とともにマルクスの資本論などが並んでいた。

それまでアメリカでは共産主義は御法度で、ソ連や中国の共産党独裁に対する民主主義の戦い、ちょうど今のテロリズムとの戦いと似た感じで捉えられていた時代があったが、それが終わり新しい時代を感じたのを強く覚えている。

アメリカの社会は、私有財産を認め個人の自由意思の総意で社会が動いて行くという事は共産主義の社会よりもより良い事だという認識にもとづいている。しかしマルクスの考えは資本主義の成熟により目先の利益に走り過ぎていろいろな矛盾が生じるため、それを乗り越えるかたちを模索する所から始まっているようだ。そのため共産主義とは旧ソ連の体制そのものを指す訳ではない。

最大利益の追求を目指す内に、同じ肉の種類でも一番安いものを提供しようとすると、ミートホープや中国産の食物になってくる。中国産が悪いのでなく、極端に安いもの、安ければいいという事自体が本来人間が健康に生活する為の食べ物という事から離れてしまう。そうするとヒューマン(人間の本性的)ではなくなってしまう。

そこで資産や財産や富を共有する社会もありえるのではないかという考えが出てきてもおかしくはない。ここでも共産主義と毛嫌いはせずに、まず前提条件や何故そう考えるに至ったのかを分析してみる事が大切だと思う。

今はまさにその辺が大切で、一番資本主義が発達しているアメリカの議論を注意深く見ると良い。また共産主義とは真反対の話でこれと似たような問題がある。右翼的と捉えられてしまうかもしれないが、日本の思想や歴史が軍国主義と混ぜられている事も、近代史を良く見直してみる事から始めないといけない。この辺の事を話すのは勇気がいるが、軍国主義や特攻隊は日本古来の思想という訳ではない。

またcommunityは「共同体」と訳されるが、これは社会での繋がりの中で、共通の価値観や趣味指向(政治ではなく)で生活する固まりのことを指すようだ。人間は社会的な動物であるという基本認識の上で、どうしていったらより良くなるのかという理想と繋がっている。

こうした前提から離れて、どちらに所属するかという排他的な面にだけに注意がいくのは、前提を理解していない為。最近のコンピューターを使った伝達手段の驚異的拡大は、このpre-comといえる、全ての共通項を探す元/前提/後ろのストーリーを考えると事を求めているようだ。

これから始まるスクーリングパッドの6期では、こうした前提条件やそもそもどうだったかを考える習慣をつけた人をゲストスピーカーに呼びたい。何が正解で何が得かだけでなく、その前を良く把握する事。

大切なのは何を考えるにも今までの慣習を打ち破る勇気と本質を見抜こうという謙虚さだと思う。これがあれば共有する事の良い部分が引き出せるはずだ。 

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