料理と学問
August 22, 2007
先日、昔からの友人の森田大剛君が遊びにきた。彼は今度素材を生かす料理の学校をやるという。サロン・ド☆ピンクという学校、なんと彼らしい名前。そんな彼とは時として感覚が合うことがある。
最近考えていることに、テレビの料理番組のおかげで、料理がレシピを覚えてメニューをこなす物になってしまったという問題がある。
本来、料理は四季の野菜や色々な自然の恵みに感謝しながら、刃物を入れ、熱を加えたりして美味しくいただくことであったはずだ。しかし先ずメニューがあり、それを作る為にスプーン何杯の砂糖や塩や油を加え、「作る」という風になってしまった。
つまり料理とは、今ある物の素材の良さを最大限引き出すことのはずが、外国料理のメニューなどを分析してそのレシピを再現することに変わり、野菜は恵み物/食材から材料になってしまった。
森田君はここの所を、あきる野の畑に囲まれた場所で教えるという。期せずして、この辺の話は月心居(ゲッシンキョ)の棚橋さんがスクーリング・パッドで語ってくれた事でもある。
これは僕も農業を考えている時に突き当たる問題だ。そしてこれは農業だけでなく、学問を志す際に関しても見られる事だ。今は何がはやっているか、どんな論文が受けているかを重視し、とにかくそれらを読んで自分の考えに加えるという今の風潮に似ている。
しかし、問題を解くことは問題とは何かを深めなければ解けない。何が答えかを追いかけると結局、何が問題かに行き着く。すなわち問うことを考えること。そもそも何が問題かという設定自体に理を持って追求することが学問ではないかと思う。
まず自然の事象に対する驚きや尊厳があり、どうなっているかと興味が生まれ、情熱を、持って取り組むべきだ。ここでも目の前の事象に対し思考を深めるというプロセスが大切。
つまり現代の問題も、食に対しての不自然な考え方と同じ原因が見られる。美味しいモノを良く噛んで食べる事と、深く考えるということは行為としても同じことのように思える。近々、また月心居に行くので、今度は森田君も連れていこう。そして、食と思考を会話のおかずに、体に良いおいしい料理を食べようと思う。
I think the way of cooking has changed.Many people are trying hard to remember just recipes. For example, vegetables are considered as just materials to them.
This could also apply to the scholarly world.People try to catch the newest and popular theses, and then put thoughts from those onto their papers.
But solving a problem is to think deeply about what the problem is.Chasing an answer is a same thing as thinking about the problem. We have to keep thinking what the problem is.
Observe the situation in front of you and handle those with interests and passion. Important thing is the process of thinking and observing.
In other words, problems that we have now in this world and cooking recipes problem share the same cause. It is same thing to chew carefully when you are eating and to chew over a problem carefully.