新しい経済、次の世界の価値観、次世代のデザイン

February 18, 2008

先日スクーリングパッドの学校説明会で若い人達の意見を色々聞いていて、ふと思ったことがある。

一昔前の人達は学習塾や予備校や参考書もないが結構勉強ができた。その前は戦前の旧制高校で、当時流行ったデカンショ(デカルト、カント、ショウペンハウエルといった哲学者達の本)を読んで半年暮らす。残りの半年は山に登ったり酒を飲んだり寝て暮らす。流石にこの体験はなかったが、戦後しばらくしての僕らの世代も教科書と問題集だけで予備校はなかった。それでも皆、色々な解き方を考え数学などを楽しむ感じがあった。

その頃の日本の数学を解く力は世界でもトップレベルだったと思う。今の小学生は毎日塾に行って次から次に勉強して色々な問題をどんどん解いているが、結果といえばそんなに良いとは限らない。クイズみたいに色々な物事を知っていても本当の思考力があるとは限らない。また戦後すぐは食べ物もお金もなかった。それに比べて今は遥かにお金があるが人々が幸せになったとは限らない。

インターネットが発達してITが発達しても情報に対する興味や知識欲が健全に発達しているとは思えないし、それを解析したり深く考えて問題に対して手を打ったりする事は弱い。コンピューターで表現が自由になったからといって、感動的でインパクトのある曲やアートが満ちあふれるわけでもなく、文明の発達やお金が果たして人間の文化や幸せにどれほど寄与しているか解らない。

こうした事をこのところ強く感じる。そしてその問題を解くにはどうして良いのか解らないとみんないう。答えが解らないというより問題意識がそもそもないという感じだ。だけど僕がどんなに問題が何かを考えようとか、本来今の時代の問題設定は何なんだろうという事をいって、頭で解っていても親も学校の先生も本当に疑問を持ってない。

団塊の世代のオヤジ達は本当に固い。いやなんで勉強するのかとかなんで学校に行くのかとかをよく考えずに、とにかく勉強しなければ将来食べて行けないとか、いい会社に行けないとかお金持ちに成れないとか色々脅かす。でもそんな事どうでもいいと彼らが思ったら全ておしまい。

そこでやる気がないといはれる若者が増えているようだけど、それは大人がおかしいのか、社会におかしい所があるのか。そこで受験勉強や塾に行き過ぎてゆっくりモノが考えられないのでゆとり教育で学校の勉強の時間を減らしても、お金持ちの家はその分お金を払ってもっと塾に行かして、同じ価値観で受験問題解答能力を付けようとする。そして国全体の学力が低くなったので、もっと勉強時間を増やそうという。

今の学校では、何故こうした問題を解くのかとか、勉強をする意味やモチベーションをあげたり。もっと言えば考える喜びとか面白さとか思考の迷宮で遊ぶ事などにインスピレーションを与えることができていない。

そこで僕らは、ない知恵を絞ったり、難しく考えすぎずに簡単に考えて乗り越える事などを自己教育して行かねばならない。自分で問題を探して、問題設定して、考え、相談して、人の言う事を聞いて、本を読んで、情報を集めて、確固たるものを得る。

社会に出てやって行く色々な知的生命力を付ける事が求められているのが解った。日本の若者にはひょっとしたらこの辺に気がつけば新しい価値観の経済を作り上げる可能性があるのではないか。池尻に集まっている、直感が有る若者達に気づかせられるようなスクーリング状況を作る事により次世代の美意識ができるような気がする。そんな事をふと思った。

安藤忠雄氏との講演 ▶

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