スポーツとデザインについて

September 8, 2008

北京オリンピックも終わりパラリンピックが始まった。このパラリンピックの方が本当はスポーツを必要としている人たちのために生活と生きる糧になっているスポーツが見えて良い。

東京でもう一度オリンピックをするのなら、北京型の国威発揚の場としてのものでなく都市の文化としてのグリーンなオリンピックにしないといけないと思う。

日本人は国際的に活躍していくコミュニケーション能力が弱いといわれている。NOといえない日本人、曖昧ではっきりしない日本人、住所も曖昧な日本などと言われる。僕は、文法が肯定文ならYESで否定文ならNOである英語と違い、日本語は相手と同じならハイで違うならイイエであるとはっきり言ってきた。

住所も古くからある地番を基にしているので、ストリート番号でない表現だ。それでも郵便もちゃんと届くし住所は確かに決まっているのだ。そして人間も曖昧なのでなく遠慮がちなんだと言い張ってきた。

しかしことスポーツに関しては、オリンピックやサッカーで大和魂などといっても、国内の価値観がまるで勇気や勇敢な行為に体を張るということがみられない。安全に生きている我々日本人の今の社会の空気では精神性が弱く、オーストラリアやスウェーデンやポートランド周辺のアメリカなどに共通して見られる文化としてのスポーツの面が弱いと思う。

毎日、一生懸命走ったり、泳いだり、チームのためにフェアーに戦ったりする美しさに触れることが少ない生活を送っているようだ。生活の一部でありプライドと品性を感じさせるランナーに出会うことが少なくなってきた。それは安全に手堅く生きながらえることが一番大切でアートもデザインも人生の中に入ってきていない。

アフガニスタンで殺されたNGOの方も生き方として今の日本人には珍しく、危険だが人のために青春を捧げようという気持ちで、覚悟を決めてアフガニスタンに農業指導に行ったのだから、当然狙われる危険性も考慮していたはずだ。

そしてこれが彼の生き方だったという所に尊厳がある。ペシャワール会は日本人を引き上げさせたようだが、残念ながら世界の人々に日本人は弱虫だと思われても仕方がない。名誉の死者を出しても、そこから志を受けて現地の人を助けてこそ流石というものだ。

これが世界の現実でありそこから逃げない方が良い。スポーツにもそれがないと大きな生き方のデザイン、人生の美学が感じられなくなる。

百瀬博教の存在 ▶

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