土地は預かりもの、時間は共有するもの、そして知恵は?
September 22, 2008
先日、ドイツ人の友人と話していて、ふとインスピレーションを得たことに、そもそも地球上の土地すべては神様からの預かりもので、我々が所有を主張しているのは、ほんの2-300年間で、イギリスやフランスでも1000年所有している家は少ないというのがある。
所詮自然は地球のもので、そこに住まわせてもらってるということ。これはアイヌやエスキモーや先住民の知恵でもある。しかし近代になって所有権にこだわり、マイホームを持つことが目的になった。
アメリカでもこうした移民や低所得者層にアメリカに家を所有するという幻想をあおり、其の所有権を債券化し商品化し,そしてサブプライムローン問題が起きた。日本のバブルと同じ。もしそんなに変な欲をかき立てられなかったらこんなことは起きなかっただろう。
一方、毎日オフィスから明治神宮を見下ろしていると、こんな大きな森も、100年前に日本中の植木屋さんが集められ明治天皇を祀るために建てられたものだと知って、昔からあるといっても、自然は作るものなんだなと思う。
僕はこの30年間、毎年20回ぐらい旅に出るのが生活になってきていた。するとある年などは年中軽い時差ぼけ、ふと目を覚ますと、今どこの国の何処の都市にいて、誰の横に寝ているのかすっかり分らないことがいっぱいあった。
すると自分の家もホテルも友人の家も居住も滞在も同じように思ってきた。居住と滞在、所有と使用の変換。良い時間が過ごせるには良い人がいて、そしていい人はいつも知的刺激や感動やインスピレーションを与え続けてくれる。知恵は出し合うもので秘密にするものではない。
しかしこの年になると、自分で庭をデザインしてみたくなる。小学生の頃、自宅の庭の端っこに植物園を作って、毎週末、牧野富太郎の植物図鑑に基づき色々な野生植物をとりに高尾山や深大寺のあたりの林を回ったものだ。
その時の仲間は自由学園の吉良さんとか僕のおじさんの科学者とかと一緒に野生植物の名前を当て合ったりしたものだった。祖父の家も庭にイギリス風の庭をおばあちゃんが大切にしていて、野菜もチシャなんかを育てていたのを思い出す。
それらの記憶や共に過ごした時間が豊かなのであり、借金してマイホームなんていうのは幻想にすぎないんだと思う。でも自分で設計した家に気に入った庭を造るのにはいくらかのお金が必要だな。