持続可能-サステナブルについて

October 6, 2008

僕にとって夜中は大抵ミュージックビデオや映画を見ながら、毎週のようにもらったり買ったりした本や雑誌に目を通す時間だ。

今日はパルプフィクションの後にリアーナのDisturbiaのPVなどを見て、ユマ・サーマンとリアーナが凄く似てるということを発見した。そうだ今度やるイベントに都市の中に理想郷を求めるという意味でurban utopia--URBABIAなんて造語がいいなと思ったりしながら、1998年にNICK DINEとやったNYのイベントもこのコンセプトだったなあと思い出したりした。そういえば夜中によっているNHKのイギリスの庭園の番組もなかなか良い。など想いを巡らせていると、ふと今はっきりさせておかないといけない事に気がついた。

サステナブル-持続可能な社会ということを毎日考えながらどうもすっきりしない。元々、やたらエコとかサステナブルとか,ロハスとか言う言葉を聞くと偽物臭く感じたものだったが、なぜだろうと考えると、自分は安全なところにいながら世の中に少しだけいいことをするという自己満足的なのが気持ち悪く、それがさらに金儲けになってくるというのも嫌な感じなのだ。本質(substance)や表に出ていない水面下の本当の存在から出たものであれば納得するのだけど。

一昔前、僕がデザインというとカッコつけていて偽善的、第一デザインが良いというものは売れないし,などと言われてきたのを思い出す。サステナブルとは本来、人類の社会が気候の温暖化や人口の爆発的増大やその他文明の自己矛盾から人類の存続が危ないという否定的なところからきたものでなくて、発展的に人間の文化が進歩して行くためにどのような循環がいいのだろうと求められるかというところから始まったものだと思う。

それが危機感をあおり、自分はちょっと良いことしている側につこうという立場からモノを言おうとするから気持ち悪いんだ、今日昼間、生意気というデザイン事務所をやっている昔からの友人のデイビットと話していてかれは違うと思ってすっきりした。ニュージーランド人の彼らが日本でデザインの仕事を始めた時、イデーワークステーションのロゴなんかを頼んでからの付き合いだ。仙台坂上のボロやの庭にいっぱい植物を植えて鎌倉山と行ったり来たりしてるらしい。彼らと本当に深いところから自然で理にかなった生活というのを少し考えてみたい。まず考える前提条件と設定が違うのだということがわかった。そしてサステナブルという言葉を継続的に進化する循環でそれがどうすれば可能かと考えると、少しほっとした。

その後、僕の一日は、先日知り会う事のできた新しい友人、古平正義さんから頂いたヴィトゲンシュタインの日記の本をぱらぱらとめくりながら、深夜に犬のそばで寝るという終わり方をした。

潤いのある思考 ▶

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