イスラエルの春、ガザの冬
February 18, 2009
村上春樹氏がイスラエルで文学賞をもらったときのスピーチで壁と卵の例えを使って、イスラエル軍がガザでパレスチナの難民を攻撃しているのをやんわり非難したそうだ。
自分は卵の側に立って、庶民というか弱者の立場で、個人の力を集めて壁と戦うというような趣旨ではないかと思う。ボクは丁度2年前にテルアビブとエルサレムに呼ばれ、又丁度先週もイスラエルの選挙の前日にテルアビブのキューレーターから僕の好きな作家の展覧会の件でメールをもらったばかりだったので凄く、リアルに感じる。
村上氏とは共通の友人の結婚式にミャンマーに行った時など数回会ったぐらいだけど、ちょっと先輩、共通の時代の空気を吸って生きてきたところはある。僕らの学生時代は庶民の側に立つか、資本家の側に立つか、強者の視点でモノを見るか、弱者の側かというように、二者対立の視点があった。
もちろん僕らは弱いものの見方になりたいと思った。その後セレブになりたい、お金持ちになりたい、富裕層になりたい、成功者になりたい。という価値を持った若者が増えたようだ。そして今、弱者の立場というのが、例えば非正規雇用というように立場の弱さという風に成ってきている。
しかし全ての弱い立場の見方で、世界の労働者よ団結せよとはどうも思えない。もっと深いし、違った視点はないかと思っていた時、オバマのような人が現れた。というか新しい視点が出来た。エルサレムに行ってみると、旧約聖書から、ユダヤ教の嘆きの壁、沢山のキリスト教の宗派が集まり、イスラム教のモスクがある。宗教的でないボクも好奇心と宗教に対する興味ですごく感動した。
オバマ的に言えば全ての人々は平等に家族や国や社会を愛し、自分の神やバックグランドを持っている。よく考えると全ての宗教では寛容の精神、自己犠牲の心を言っているではないか。という風に考えていくと現実に起きているこうした戦いを原点から掘り下げることができるのではないか。
石と砂の大地に宗教ができ、日本のように緑と水の森からできた国から出てきた神様は違う。本当は日本がもっと積極的にこうしたことを根本的に解決する立場にあるのではないかと思う。弱者の立場であるパレスチナ難民の立場に立つ方がかっこいいけど、もっと根本を解くことができたら本質的な解決に持って行けるか、少なくともそのような姿勢が貴重ではないかと思う。
それには日本が一番良い立場に立てるはずなのに、アメリカ側に立つか、どちらの下に立つかなんて言うのは恥ずかしい。多くのアメリカ人がもしオバマが負けたらアメリカ人であることを辞めたい、恥ずかしいからということを言っていたのを思い出す。日本の政治の現状を見ると同じような気持ちがする。
それにはどちらの側にたつというより、どこが基本的な合意点で何を求めればいいか、夢や理想を提示して行く力が必要なのだろうか。僕らの時代ではそのために自分の立場を明確にして、とことん戦って殺し合わなければ次が来ないかのようにいわれていたが、僕はそうは思わない。弱者にとっても強者にとっても悲劇なのだから。そこには今となっては小さい地球が在るだけなのだから。
ところで僕にできる事といったら政治的な事でなくて、イスラエルの良いデザイナーとパレスチナ人のデザイナーのコラボレーションぐらいかなと思うのも少し寂しい。