Freedom University
April 30, 2009
僕は4年前に、池尻の廃校になった中学校を改装し、そこでスクーリング・パッドという学校を始めた。ここはいってみれば現代の寺子屋のようなもので僕はデザインコミュニケーション学部をやっている。
クルーと呼ばれる生徒は4学部で今までで1500人ぐらいになった。終わった後も卒業というよりコミュニティーに入る感じで面白くて有能な人が集まっている。
デザインは今やコミュニケーションのメディアであり、デザインなくしては商品も、家具も、建築も、インテリアもない。最近はその善し悪しも情報と密接に繋がってきて、後ろにあるストーリーが求められる。
中村悌ニさんのレストランビジネス学部も大きく発展してきた。また李鳳宇さんの映画学部や永島敏行さんの農業学部も面白く、これらの学部が一つになりスクーリング・パッドというまとまりが発展してきた。
そして続けていく内に、現代の若者達はすごく良い素質を持っているが、彼/彼女達の親の世代、つまり団塊の世代前後の価値観を踏襲していて、それとの関係が整理されていないということに気がついた。
経済的に安全なことが最優先され、大学/就職と進み、安全に死ぬことが人生の目的かと言わんばかりだ。スマート(賢い)だけどワイズ(賢明)でないし、クレバー(お利口)だけど信念がない。
しかしそれでもまあ良いか、親もお金があるし、会社も大きくて安全だし、という感じの方向性が世間に広がっていた。また見た目にもきれいで、保険にも入っているしという訳だ。はたしてどこに真実があって、どこに本当の善や美しさがあるのだろうか。
スクーリング・パッドを通じて僕が学んだ事は、こうした若者や大人も実は今までの学校のシステムを超えて、そこから更にに本来ある古くからの叡智や、実際の社会で役に立つことを深く考えてやって行きたいと思っているということ。
そしてそれをかなえるには、教える人よりも、段取りや組み合わせをする人、つまりキュレーターの様に、セッシオン(スクーリング・パッドでの授業)の組み立てと概念をまとめる人が大切ではないかと思うに至った。
有名教授の講義が毎回面白いとは限らないし、まずどの意図で何を学びたいかということが大切なはずだ。
そこで教えたいという情熱を持っている人(それは学校で安全に規則通りに教えることだけではなく、インスピレーションを与えて、生徒の顔が変化する様を見れる人でもある)と本当に深く考え、真実を知りたい生徒と、それらをキュレーション/オーガナイズしたい人が集まって、新しい学ぶシステムを作りたいと思う様になった。
経済危機/大不況/自然環境の崩壊/人口問題/食料危機が起こっている現在の状況では、地球という今や小さく思える自然の中で、これ以上人数や数字が大きくなることだけを追いかけないで、充実し進歩する社会をめざして行かなければ、やって行けない事が明らかになってきた。
何故会社は大きく成り続けないといけないのだろう。どうして売り上げが増え続けないといけないのか。もし賢く大人になる社会、深化し進歩する会社のあり方をイメージできる様になれば、また一つ道が開けるのではないかと思う様になってきた。
これを自由にやっていくための自由大学を立ち上げるにあたり、まずは自由とは何かと考えていた。すると新緑の様に新しい新鮮できれいなものが見えてきた。僕は哲学や宗教の原点も知りたいし、新しい仕事や情報のことも知りたい。教え教わり、企画してきれいにやって行きたい。
自由大学は5月から仮スタートして、夏からは本格的に始めたいと考えている。幸い若い人達が仕事としてもこの事業に参加してくれるようだ。そしてこれが僕のライフワークになると良いと思っている。