インスピレーションは贈り物
April 4, 2009
最近、僕が国連大学でやってきた事がやっと少しづつみんなに理解されてきたように思えてうれしい。
我々人類は賢明な動物だと言われてきたが、実は目先の事ばかり考えて、それも欲にかられ本当に賢く事を運んできてはいないのではないか。それは僕も含め、みんなつい目の前の事に集中して、残念ながら見苦しくも、きれいには物事を進めて来れてなかった気がする。
僕は今まで青山の国連大学で、デザインイベントをやったり、フランスの60年代の哲学者ボードリヤールを呼んで講演会したりしてきた。
それらを通して彼らと友人になり、コンラッド学長やダルタニアン事務局長と話すたびに、この世界的な経済危機はすなわち知性の混乱の時期、その時にこそまた国連大学だからこそやれる事を、デザインや音楽やアートや文化の力を借りてやって行くべきなのではないかと言ってきた。
政治はとかく目先の人気取りの為に今開かれているG20の様に、現実的な実利の集合体が未来であるかの様にもって行くが、実はよく考えられた本当に人類の英知に基づく
判断はなされてはいないのではないかと思ってしまう。
そこでボクはこのところスイス人の物理学者の学長と、ドイツ人でアートや骨董が好きなローズウイッタ夫人とフランス人のダルタニアン氏と折り入って、深くその辺のことを話す事が多かった。
もし僕がエーリッヒ・ケストナーの「点子ちゃんとアントン」を子供の頃好きでなかったらこんなにドイツ人のお転婆で話の面白い夫人と笑えなかっただろうし、「三銃士」や「ああ無常」やその他のフランス歴史小説が好きでなかったら、こんなにダルタニアン氏と仲良くなれなかったのではないかと思う。
それぐらい気が合い、冗談やインスピレーションを共有し、その結果としてまるで天からのギフトの様に次々と新しいアイディアが浮かんでくる。
実は国連大学はその当初から日本に本部を置き、アジアの始めての国連の事務総長ビルマ人のウタント氏が教育と叡智こそが世界に必要だという事で設立され、その後日本が国際社会で存在を主張することができる数少ないチャンスとして与えられてきた。しかし残念ながら認知度が少なく、存在を知られていないような状態だった。
それと同時に日本の大学や教育全体のレベルも伸び悩み、本質的な思考力よりも知識集約型の教育が進み、何でも答えがある事、決められた事を学習する傾向があるようだ。決められた事でないとなんか気持ち悪い様に身に付いてしまい、現在の様に答えの見えない問題が前に大きく横たわっている場合どうして良いか全く対処できないでいる。
問題の解決の仕方が美しいという事などはまるで考慮されずに、答えが合っているか、何点取ったかだけが問題視されるような教育ではいけないのではないかと思っていたが、僕の意見などは所詮は少数者だった。
しかし彼らといると同じ種類の人間がいるのだという事が良くわかり、うれしくもあり楽しむことができる。問題は解決に対する取り組みや姿勢なんだと、彼らも同じ様に感じてくれているようだ。すぐ「じゃあどうすれば良いんですか?」と聞かれて現実に引きずりおろされる僕としては、まず同類の人種がいて、それが何人であるかなどと関係ない事が驚きでもある。
そんな子供時代にどんな本が好きで、どんな遊びをしたかで、急にその人が幼ななじみの様に感じられる経験はみんなしているのではないだろうか。そういえばイギリス人でラグビー選手だった友人のフランクとハイドパークで相撲したりしたものだ。その後に、ビールを飲んでこれ以上笑えないぐらい笑った。
これら全ての昔からの経験が、ある種の贈り物だったのだという気がしてきた。インスピレーションを大切にするには、自分の本心で行動してどんなときにも勇気を持って行くという三銃士のダルタニアンの様な無謀とも思える生き方が良いのだと思えてきた。