教え教わることと学費
June 12, 2009
「スポーツをするのに、見せ物でもないのにお金をもらうなんてどうかと思う。純粋にスポーツをするのが美しいのに、お金が絡むといやらしい。」という意見は一理ある。
しかしプロ野球や、大リーグでイチロウがバットを振る時、お金のことを考えるかというと、きっとお金のことなど忘れて一生懸命球に向っているのだろう。打ち込むことは直接お金には関係ない。
お金が先に出てくると、品性がない様に思えるのは確かだ。お茶やお花や書道などを習うとき、今でも月謝は表には出さずに、先輩、兄弟子からいくらぐらい包むのが良いと教わったりすることもある。
これなんかは税務署はどう捉えるのかな?日本の文化の美点にはこうした西洋の合理主義とは違うところがあるから、根本的に教職は聖職だとか、農はビジネスではないという考えがあるのだと思う。
しかし現在の資本主義社会でビジネスでないものはないし、政治も医療も教育もお金が絡むこと、それをどう奇麗にフェアにやるかが文化ではないかという難しさがある。
自由大学を考えるとき、教える人で自分からお金の話をするのが苦手という人が多い。これは日本人の良いところをもっている人を教授に集めているということかもしれないが、とてもおこがましくて授業料がいくらだとか、学生になってくれとか言えない、という教授もいる。
そこでキュレイターが社会の俗な部分やお金をまとめたり人数をまとめたりすることに活躍してもらう。むしろ学ぶということは学びの場の設定ということ、テーマや学ぶという情報の移行とコミュニケーションが同時に起きるということをどう作るかが大切だと思う。
アートやデザインがいきなり成立しないのと同じで、知も組み立てがないと、中々まともに学ぶことがしにくい。システムやプラットフォームがしっかりしていないと学びそのものも成り立ちにくい。
僕らの自由大学でも、授業料の設定と講義の設定には気を使うし、お金のことは始めにルールを決めてから始めないとと思う。お金が全てではないのを解っているからこそお金のことを決めとくという、合理的な品格みたいなものを考えている。
全てこの世は金次第ということもあるが、高い次元でさらっと決めておくことと、キュレイターの存在をおいたことが深いと思う。それをプロデューサーとも言えるし、叡智の編集者とも言えると思う。
しかし、やはりお金のことは少し慎み深い態度が必要なのかなと思う。それが会社や人にも品を生み出すと思うけど、うじうじと嘘っぽく、偽善的な政治家のお金回りとは一緒にしたくない。
そこ行くとオバマのようなお金の集め方は潔く、気持ち良い。ボクはスクーリングパッドをやって、お金をもらうからこそ他じゃ絶対ないことを、他の人が出来そうもないことをお教えしたいし、提示したいと思ってやってきた。これがボクには凄く役に立った。
教えることから学んだし、常にクルーの反応を観察して来たから飽きずに少しずつ進歩してきたと思う。ゲストスピーカーもスクーリングパッドで話すことにより自分の考えや、自分が本当にやりたいことが見えてきたと言ってくれる人が多い。
するとクルーと呼ばれる生徒も教える喜びを平等に得ることができるし、組み立てることも出来る。結局解ったという瞬間は目から鱗が落ち、脳の中の活性化が起こり、一歩進める瞬間なのかもしれない。これはとても人間らしいと思う。