Ready Study Go
September 27, 2016
位置について、ヨーイ、ドンをReady,Steady,Go.というが、リオのオリンピックをテレビで見ていて、この、競技のスタートからゴールまでの設定、新しい競技や競技そのものが、色々な設定から行われていることがふと気になった。
例えば、短距離の花100メートル、もしもあと10メートルだけ有ったら、結果は全く違ったドラマに成っていた。ということが見て取れる。
110メートル競争にしたらまた違った結果が待っているかもしれない。だけど障害は110メートル障害。これは障害の間の歩数から、100メートルでなく110メートルに決まっている様だ。マラソンはギリシャの故事から42.195キロ。
競歩には50キロ競歩がある。これらの、先ず競技の初期設定はいろいろなことで決まっているが、その設定で精一杯戦ってみて、そこで結果にこだわるが
全体に所詮スポーツ、戦争ではなくそこを大きな意味で楽しもう、というコトではないのか?
そこに国単位で幾つメダルを取ったか?などを余りうるさく言わない方がスマートな様に思える。国家の為に戦うことさえも楽しんでしまい、ドラマがあることもスポーツの一部。という風に近代オリンピックを囲む情況は変わって来ている。むしろ国によって、人気競技が違い、スポーツを楽しむ情況と、健康管理としてのスポーツ環境がどのように出来ているか?によって全体に運動能力が伸びて行く。
アメリカはスポーツ放送がバーやメデイアで常に流され、社会の意識がスポーツに向っている。スポーツに関係ない様なおじさんでも、何年のシーズンはバスケットは誰が活躍して、何処のチームが勝ったという様に、自分の人生経験に結びつけて、スポーツと共に生きている。
また、この野球やバスケットや、サッカーの様なチーム競技は、そのチームマネージメントや、全体の流れの作り方が時代によって違う様に、時代の流行や、国によってのスタイル、がある様だ。
個人が強いだけではダメだけど、チームが一人の人間の様にうまく意思をまとめて戦って行くのはその国のスポーツ文化の華だ。諸橋さんはフェンシング部のキャプテンだった頃、この個人競技の団体戦で、誰に誰を当てるかが勝敗の鍵を握って居たということをどう演出するか?ここが勝敗を分けたと言っていた。
色々なスタイルがある。ルールさえも毎年変わって行く。そこでは時代の価値観に密接に関係する。ルールや初期設定の流動性、そこの設定さえも仮に決めたもの、で毎年変わって行くものではないか?
自由大学でいつも問題にしているのは、この問題設定が、従来のカリキュラムでは古くて、情報のデータベース、頭の中の記録容量依存型の學びから、変化する外部環境にどう対処するかの、問題設定を色々かえてみることにより、実際の社会にどう対応するかの能力獲得型とでも言った、より本質的なことを掘り下げて、それにどう立ち向かうか、どのように解釈して、問題設定を従来の価値から換えて行くか?を問題視している。
そうして考えてみると、色々な所に問題が隠れている。學びはいろいろなことをどお問いに換え、學びを設定するかによって全く違って来る。ここで學びのキューレイションということがある。この多様な問題設定から、色々なスポーツが、遊び心と表裏一体として生まれて来た様に、色々な學びを見つけることを面白い、をキーに設定することができる。
人生全てスポーツと言い切ってしまうかのように、人生全て學びである、と言えるか?また學び、考え、初期設定、スタートポイントが決まれば、後は実行して、結果を見る。そこに偶然や進化がある。
社会で新しい仕事を考えて、それを実行してみる。新しく起業してみるということがある。新しくスポーツのルールと競技を作ることは、子供がなんでも遊びにしてしまう様に、面白いコトを考えることが先ずあり、そこでも最近の習い事が多すぎる子供が増えて、いわゆる都会の上流階級の子弟の習い事ブームから、自然の中で何でも遊びにしてしまうワイルドな子供の方が社会を変える可能性がある。
遊ぶ様に學び、何もない所にルールを決めてスポーツにしてしまう。Ready, Study, Goという訳だ。好奇心や、面白いことをまず問いにして、そして學び、それを実行してみよう。そうすることが本当の叡智を獲得することに繋がるとよいと思う。