イデーの草創期 #2
December 19, 2023
僕はずっと精神年齢が高校3年生のままであり、いつも心にはStonesの曲とDylanの歌詞があると言ったら、ちょっとカッコつけている様だが、ほぼその通りだった。
その頃、僕は新宿のジャズ喫茶のDUGや木馬によく行った。ジャズ喫茶は、私語を禁じられている空間で、ジャズだけを良いオーデイオシステムで静かに聴き、丁寧に一杯づつドリップでいれられたコーヒーを飲むという場所だった。そこでは学生運動で活動していた活動家も、ヘルメットを紙袋に入れて隠して、静かな調和を保っていた。僕はトックリセーターにベルボトムのジーンズに長髪という格好で静かにジャズなどを聴いていた。
当時の新宿は騒乱状態で、フォークゲリラが行われたり、ロック革命を言う若者が多く、学生運動も真っ盛りだった。当時の早稲田大学理工学部の学部長は建築家の吉阪教授だったので、大衆団交の際に、彼に対して国家権力と対峙してこそ大学の学問と真理を追求することができるのではないかと主張したことを覚えている。しかしその学生運動の構成セクトは年功序列、学閥重視の大人の社会をコピーしている様に思えたし、格好良くない人たちの様に思えた。
そこで、弟がロンドンに留学していたので、イギリス製の物を送らせてそれを日本で売る仕事を始めた。当時は西洋のアンティークがブームで、僕らはまずダンヒルのオイルライターと万年筆に特化して扱った。万年筆は夏目漱石も使っていた、抜群の書き心地のOnotoや、Waterman、Pelicanなどの古くても程度の良いものを集めて売った。また古い蓄音機を探して日本のジャズ喫茶に飾っている人に売ったり、効率の良い商売に目覚めていった。
弟がコレクター気質でオタクだったので、古いオイルライターでタバコを吸いながら音楽を聴き、古い万年筆でものを書くという、今の社会ではないライフスタイルに憧れ、それを元に事業を始めたという訳だ。当時の僕にはイギリスの骨董市やパリの蚤の市を廻って自分の好きなものを買って日本で売る事は魅力的だった。