イデーの草創期 #3

December 21, 2023

古い万年筆やオイルライターを修理したり、エジソンの蝋管蓄音機を売って儲けたお金で、ヨーロッパを買い付けで回った。イギリスからスコットランドまでも足を伸ばしたし、フランス/パリには頻繁に行った。

自分の好きなものや、綺麗だと思う骨董品を青山の骨董通り(この名前は、当時からくさという古い伊万里の陶器を扱っていた中島誠之助さんと西洋骨董を扱っていた僕が名付けた)の店で売った。かつては渋谷から六本木までの都電が通っていて都電通りと呼ばれ、今の国連大学の場所には都電の操車場があった。

当時は、Pan Americanの世界一周便が$999であり、香港出発でヨーロッパを周りニューヨークからサンフランシスコを回って帰国するというルートで、これを何度も利用した。世界一周する内に、世界中に友達を持つようになり、世界は一つという感覚が生まれた。

そして、インテリアや家具に興味が移り、建築にも興味を持つ様になった。祖父の家はフランクロイドライトの弟子の遠藤新が設計していた。祖母は自由学園の羽仁さんの事もよく知っていた。ただ、祖父の家が本に取り上げられていた事などは、僕にとってはうざいことであった。それぐらい祖母の言うことや両親に反発して独自の人生にこだわった。

その頃の骨董通りはまだ何もなく、コムデギャルソンの川久保さんが小さな店を出して、当時の副社長の片山くんはよく店を冷やかしにきた。ある時、僕の店にPaul Smithが顔を出して、骨董家具に塗るBriwaxというワックスをくれないか?と聞いてきたので、それを塗りに彼の店に出かけていった。それ以来ロンドンで会ったりしている。

1980年頃は、片山くんから今度コムデギャルソンがパリで展示会をするので手伝ってくれないか?と話があり、川久保さんにお会いして、パリのショウや展示会を手伝った。

それまでは会社との仕事には縁がなく、初めてファッションにも触れた。この時にコムデギャルソンのお手伝いできたのは良かったし、川久保さんの風変わりな人柄も気にいった。近くで色々仕事をする内に、その美意識、思想、デザイン、ファションは僕に影響を与えた。

その時、僕は家具で勝負しようと決心した。

骨董品の買い付けで行ったロンドンのキングスロードで、風邪をひき、薬屋に入ったら、そこの主人から、息子が日本住んでいるのでプレゼントを持っていってくれないか?と言われた。翌日に行くと小さな包みを渡され、それを吉祥寺に住んでいる息子さんに届けた。彼の名前はエイドリアン・ジョフィ、後にコムデギャルソンに入り、川久保さんのパートナーとなった。こうした偶然がたくさんある。こうした偶然がたくさんある。

家具の方は、アンティークのベントウッドチェアを沢山売った。その流れで日本でベントウッドチェアを作っていた秋田木工を訪問して社長とお話し、よりシンプルに作ってもらい、自社製品の販売を開始した。

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